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日本美術の歴史について [芸術]

それでは、日本に美術品ができたのはいつごろのことでしょうか?

西暦538年に日本に仏教が伝来される前は文字がなかったので、文献がありませんから、詳しいことはわかりませんが、多分この仏教が伝来されて以降だと考えられます。

この仏教公伝に伴い、大陸のすぐれた文化が日本に伝えられ、

飛鳥時代以降は文化が発達しました。

それまで、日本の宗教は神道でありましたが、仏教という異宗教を受け入れるか否かで大問題となり、

聖徳太子は仏教を国家宗教にするために、寺院を建て信者づくりを始めました。

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仏教は、国家宗教としてとり上げられましたが、為政者がただ仏を拝みなさいというだけでは、国民は拝みません。

宗教は心であり、生活の基本でありますから、それを変える事は大変な事でありました。

そこで仏教が如何に有難いものであるかを知らせなければならなかったのです。

ここからが仏教による美術品の登場となります。

それが、法隆寺における建築や仏像になります。

次回はこの法隆寺における美術品を勉強していきましょう。

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何故、優れた芸術品を見る必要があるのか [芸術]

秋になると種々の展覧会が開催され、京博の琳派展や奈良博の正倉院展は大勢の人が訪れます。

琳派展は私は10月の末の金曜日の夜に行きましたが、人は多かったですが、まあまあ見れました。

友人は11月3日の文化の日に行って150分待ちだったとか。

これでは見る前から疲れるし、中に入っても人は動かないし、後ろに回ると頭で見えないという悲惨な状況になりますよね!

確かにいいものが揃っているので、仕方ないのですが、なるべく空いている時を狙った方が、同じお金を出すのでしたら、その方がいいですよね!

よくみなさんが観ておられる光景を見ると、必死で説明書きを読まれています。確かに、読まないと何かわからないのですが、私は極力見ないようにしています。

作品名や作者名は見ますが、極力作品に注目しています。

絵画でしたら、バランス・配置はどうなっているのか?

色使いはどうか?

その作者の特徴はどこに出ているのか等

作者によって、それぞれ特徴が違うので、結構面白いです。

そして、その作品は何を表現しているのか?

これらを見ていると、ひとつに10分や20分では到底足りないことになります。

ですから、作品はいいと言われているものを集中して見ることにしております。

こうやって、見ていると結構、目に焼き付いています。

そして、芸術性の高いものは、見るだけで、その人の感性を高め、いろいろなものの優劣を判断できるようになります。

その目的のために優れた美術品を見るのです。

美しいものは、だれが見ても美しいのです。

春の桜や秋の紅葉は、変人でない限り、美しくないという人はいません。

美術品も同じです。

ですから、何かわからないイメージの絵や造形物等は見る必要がないのです。

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尾形光琳の絵画およびその他の特徴 [芸術]

以上のような光琳の絵画の特徴は、

『百合螺鈿蒔絵豪』や『芥子螺釦蒔絵重箱』などの蒔絵にもあらわれています。

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百合螺鈿蒔絵豪

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芥子螺釦蒔絵重箱

『鹿楓響剱蒔絵小箱』では、光悦の『春日山螺鈿蒔絵手箱』に見られるように、

土岐の線が全体を力強く引締めております。
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鹿楓響剱蒔絵小箱

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春日山螺鈿蒔絵手箱

 また、弟・乾山作の陶器の絵にも見ることができます。

乾山の陶器の最初の頃の絵は全て光琳が描いております。

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色絵菊図角皿

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銹絵芙蓉図菓子鉢

『燕子花図屏風』
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 この屏風は、同じ題材を扱っている根津美術館所蔵の『燕子花図屏風』とは

全く違った様子となっております。

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根津美術館所蔵の『燕子花図屏風』

根津美術館の屏風は、広間に置いて、

その前を人が通るとよいような、テンポのある、景色・背景のような絵というべきもので、

絵自体に主体というべきものがありません。

それに対して、この屏風は、十畳程度の部屋に置いて、

人が前にいると邪魔になるような絵であり、

絵の中に主体があります。

それが、右から2曲目の青い燕子花であり、左から2曲目の白い燕子花であります。

『桔梗図屏風』
 これは、群生的なあり方です。
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そのために、『燕子花図屏風』のように

主体がはっきりとしているというわけにはいきませんが、

その中でも、左から2曲目の群生と一番右の群生が

対照となっていると見てまいと思います。

ここでの美術品は黎明教会資料研修館に保蔵されております。
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尾形光琳の絵画の特徴 [芸術]

光琳の絵画はすべて表を向いているという特徴かあります。

 例えば光琳の描いた『仏桑花図』の葉を見ますと、

重なったり、裏になったりしていません。

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仏桑花図


装飾性を重んじた、表面絵画といえるものです。

 また光琳の描く草木はいつも生き生きとしており、

葉は生き生きと水の通った緑色をしています。

光琳の絵画の中で描かれる草や葉は、野生のものではなく、

人間の手で育てられた庭にある草木です。

そして、菊などは花よりも葉に主体があるために、

『扇面赤菊図』『扇面白菊図』などでは「葉脈」に見所があります。

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扇面白菊図

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また、光琳の印は絵の一部を構成していきます。

例えば『椿図』の「光琳」印や、『扇面赤菊図』の「伊亮」印は、

全体を押える役目をもっています。
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扇面赤菊図

0004.jpg椿図

 また光琳は、それぞれの画面に適した構成を用いています。

例えば『扇面白菊図』の場合、

すべての菊の茎をたどると扇子の要のところに行き着きます。

つまり、扇子の場合は扇子の要から

広がる構成を用いているということになるわけです。

 別の角度から光琳の絵画を見てみますと、

セザンヌと同じように黄金率を認めることができます。

例えば『扇面秋草図』や『椿図』などを

黄金率に当てはまった構成のよく判る例としてあげることができます。

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扇面秋草図


尾形光琳の生い立ちⅡ [芸術]

雁金屋は、祖父・宗柏と伯父・宗甫、父・宗謙の間に京都で

有数の呉服商として発展していました。

光琳は、呉服商・雁金屋をいとなみ文芸分野に関心の深かった父・宗謙の薫陶を受け、

15歳で「装束付百二十番」を、19歳で「諸能仕様覚書」を伝授されたり、

絵画を習うなど、家業の呉服商・染め物などの技術を習得しながら

芸術的感性を磨いておりました。

また当時の上層町衆の常として、能や謡にも親しみがあったと思われます。

 これらなどから、光琳も光悦と同じく、

いわゆる「調子」を身につけていったものと思われます。

光琳は、当時の京都の豪商としての雁金屋の関係から公家や上級武士、上層町衆など、

上流階級とのつながりがみられます。

京都では二条綱平や中村内蔵助とのつながりがあり、

江戸では酒井家や冬木家との関係がありました。

また、息子・寿市郎を養子に出した小西彦九郎(京都銀座役人)との関係も認められます。

光琳の資料として第一級の価値のある『小西家文書』は、この小西家に伝わったものであり、

光琳直筆の文書資料です。

尾形光琳の生い立ち [芸術]

次に、光悦よりも100年後に生誕した、

琳派の名の元ともなった尾形光琳について書いてみましょう。

作品に移るまえに、彼の生い立ちから書いてみます。

尾形光琳は、万治元年(1658年)に京都の呉服商・雁金屋の息子として生まれました。

尾形家は浅井家の家臣であったことは『本阿弥行状記』にも認められます。

『本阿弥行状記』では、尾形家の祖先は浅井家の家来であり、

光琳の曽祖父・道柏の息子・宗柏(新三郎)は浅井長政の娘・小督が徳川秀忠に嫁いだ時に、

衆楽第から伏見へお供しています。

それ以降、尾形家は豊臣家(淀君は浅井長政の娘、小督の姉)、

徳川家、また東福門院など禁裡・公家への呉服御用をつかさどるようになり、

宗柏の時代には雁金屋として京都で相当に著名な呉服屋となっていたようです。

『本阿弥行状記』に記きれている以前は、

源平の戦いで名を馳せた豊後の緒方三郎惟義を遠祖にもつといわれ、

光琳の曽祖父・道柏の父・伊春が緒方村から出て足利義昭に仕えたといわれています。

豊後の出身という点では、光悦の父・光二が、

豊後守の次男の家(片岡家)から本阿弥家に養子になったこと、

光悦が片岡家から光嗟を養子に迎えたこととあわせて興味深い関係も見られます。

尾形家と本阿弥家の関係を見てみますと、

曽祖父・道柏が本阿弥光悦の姉・法秀と結婚しており、

祖父・宗柏も光悦との親交が深く、鷹が峰の光悦村に家を持ってもいたことがわかっております。

『光流四墨』には光悦とともに宗柏も筆をとっています。


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風神雷神図屏風について [芸術]

宗達の代表作といってもいい「風神雷神図屏風」ですが、現在京都国立博物館の琳派展に出展されております。

この屏風は家や人物を描かず、風神・雷神と雲だけで、この時代には珍しい題材となっております。

大変力強い作品で、動いている(走っている)風神と止まっている雷神が同時に描かれており、こんな風に動と静が混在しているのは、この絵が初めてであると思われます。

この風神雷神図屏風は100年後に登場する光琳も描いております。

ただ、光琳は単純に模写するのではなく、宗達では対等であった風神、雷神を男女に見立て、雷神を若干下に下げています。

つまり、風神は動的な男性に比べて、雷神は静的な女性に見立てているのです。

それによって、光琳の絵は見事なバランスを生み出しております。

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俵屋宗達について [芸術]

現在、京都博物館では「琳派展」を開催しているが、その中でも注目を集めているのが、

俵屋宗達の「風神雷神図屏風」でありますが、この俵屋宗達という人はどういう人物でしょうか?

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宗達という落款のある絵があるので、宗達という人が居たことは間違ありません。

描いた絵の多くが国宝や重文に指定されている偉い両家であり、

たった400年前の人であるのに、どこで生まれたか、どういう勉強をしてきた人か、

誰に仕えていたかということが分かりません。

世間では「俵屋宗達」といわれていますが、「俵屋宗達」という人はおりません。

二百何十年経った過去帳に「俵屋室」俵屋の奥さんであるという人が存在しており、

それが宗達の奥さんだといわれ、俵屋と宗達が一緒になって俵屋宗達が生まれました。

実際には俵屋と宗達とは関係がなく、学者が俵屋宗達というものをつくったといわれています。

だから俵屋宗達といわないで、宗達とだけ言った方がいいでしょう。

宗達という人が居たことは間違ありませんが、絵描きとしてこの時代、

法橋という偉い位をもらっており、また福島正則が厳島の平家納経がいたんでいるので、

これをなおすよう命じ、直させています。

醍醐寺に宗達の立派な屏風がありますが、法橋宗達と書いてあり、印が押してあります。

法橋宗達とかかれた絵がいくつか残っておりますが、

なかには宗達法橋とかいてある絵もあります。

次は、「風神雷神図屏風」について、もう少し詳細に解説しましょう。

明日はお休み致します。

本阿弥光悦Ⅳ [芸術]

本阿弥光悦も4回目となりました。

ここでは書以外の作品について解説してみましょう

木阿弥光悦の絵画・蒔絵、その他の芸術

 まず、書の下絵の特徴を見てみますと、『職人歌合 鍛冶番匠』の下絵の菊の図はすばらしいものです。

この菊は、黒く見えますが、銀が酸化して黒くなったものです。

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また、光悦最晩年の『和歌巻断簡』(稲葉家旧臘)の下絵には、あるかないか分からない程度の「すすき」が描かれています。

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光悦の絵の変化をこれらにも見ることができます。

つまり、光悦の初期の下絵は、枠の中に一杯描かれてあるのですが、この下絵が後期になるにしたがって、小さく薄くなっていきます。

光悦の蒔絵を見てみますと、『春日山螺鈿蒔絵手箱』の斬新なデザインはすばらしいものですが、

この中で、土披と木を区切る細い線は特に気をつけて見ておかなければならないところです。

この細い線によって、絵全体が引締められております。

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光悦の茶碗の例として、『不二山』(酒井家所蔵)を上げることができます。

この茶碗は、光悦の特徴である「けしき」の良さが素晴らしくでています。

一説には、この『不二山』の茶碗を光悦が娘の嫁入り道具の代わりにしたと言われています。

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光悦村には本阿弥一族や芸術家、豪商・茶屋四郎次郎などのほか、光悦の芸術をきざえた職人も居を構えていました。

まず『憎蒼蝿賦巻』の裏に雲母印のある「紙師宗二」は光悦に独特の雲母引の紙を提供していた紙師であり、

光悦村に間口15間の居をえていました。

その他、染物をしていたと思われる「秋ば」姓の家や、漆芸をしていたと思われる「土田」姓の家、

「筆や」という姓の家など、多くの技術者が光悦村に住んでいたと思われます。

本阿弥光悦Ⅲ [芸術]

昨日お話しした内容をその作品を見ながら解説致します。

昨日のお話と重複しますが、

その第一は、第一筆目の入り方に光悦独特の竹半で見られることです。

例えば『秋風辞』の「秋」の文字の拡大写真などを見てもわかるように、

最初の一筆目の力の入れ方、筆の長い方などは非常に特徴をあらわしています。

またこの字には、張即之(※)の字を勉強したあとがみられます。

次の「風」もすばらしい筆の入り方をしていますし、この字は空海の『風信帖』ともよく似ています。

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これは紙の上への墨での書のみならず、

『春日山螺鈿蒔絵手箱』や

『竹 光悦書花入 降雪』『糸瓜図竹花入』など

器物の上への漆での書(蒔絵など)にも同様に見られる特徴です。

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このような、文字への筆の入り方の例として、

『色紙貼交藤葛図屏風』の色紙の中から「鷹」の頭の入り方、

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『書状』の中から「九」の字の入り方などを上げることができます。

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また、文字への入り方と同様に、文字の中での長く引く部分から筆を離すまでの筆の流れ、文字からの筆の出方にも独特の特徴が見られます。例えば、『職人歌合 鍛冶番匠』の「人」の文字を見ますと、一筆目の右上からの入り方と、二筆目の右下への伸びていくいきかた、筆の出方に特徴があります。この時の筆使いは、一息も入れずに、一気に書かれています。

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同じ特徴は、『歌仙図 中務』や『和歌巻断簡 百行』『貼交屏風』の「し」の文字に見られます。
これらの「し」の入り方を見れば、光悦の書の真贋はすぐ判ります。

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明日はこの書以外についても、書いていきましょう。

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